企業防災完全ガイド:第1回 なぜオフィス防災は経営課題なのか?

はじめに:単なる「万が一への備え」を超えて

現代のビジネス環境において、オフィス防災はもはや「万が一への備え」という消極的な位置づけではありません。それは、企業の存続そのものを左右する、極めて重要な経営課題です。
災害への対策は、従業員の安全を確保するという基本的な責務はもちろんのこと、企業の法的責任、事業の継続性、そして社会からの信頼に直結する、避けては通れない要素となっています。

この全5回のシリーズでは、企業の防災対策を包括的に解説します。
第1回となる本記事では、なぜオフィス防災がすべての企業にとって無視できない責務であるのか、その法的・社会的・戦略的な背景を深く掘り下げて解説します。

企業の根源的責任:「安全配慮義務」という法的義務

企業が防災対策を講じるべき最も根源的な理由は、法律によって明確に定められた「安全配慮義務」にあります。
労働契約法第5条には、「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と規定されています。

この義務は、自然災害の発生時においても決して例外ではありません。
かつては「天災」として企業の責任が問われにくかった事象も、現代ではその解釈が大きく変化しています。
重要なのは、企業が「予見可能な危険」に対して適切な対策を怠ったかどうかという点です。
例えば、地震多発国である日本において、オフィス家具の転倒防止措置を講じなかったために従業員が負傷した場合や、大規模災害時に帰宅困難者となることが予見されるにもかかわらず、十分な備蓄がなかったために従業員の健康が損なわれた場合、安全配慮義務違反として企業が損害賠償責任を問われる可能性があります。

この法的責任の重さを示す象徴的な事例として、東日本大震災の際に、津波の危険性を予見できたにもかかわらず適切な避難誘導を怠ったとして、企業の責任が認定された裁判例が存在します。
この判例は、災害が「想定外の出来事」ではなく、「予見し、対策すべきリスク」であるという社会的な認識の変化を明確に示しています。
防災用品の整備や避難計画の策定は、単なる努力目標ではなく、従業員を守ると同時に、企業自身を法的なリスクから守るための必須の防衛策なのです。

社会との契約:条例が定める「努力義務」の真の重み

直接的な法的義務に加え、多くの地方自治体が条例によって企業に防災対策を求めています。
その代表例が「東京都帰宅困難者対策条例」です。
この条例は、大災害発生時に従業員が一斉に帰宅しようとすることで生じる二次災害や救助活動の妨げを防ぐため、事業者に以下の2点を「努力義務」として課しています。

  1. 従業員をむやみに移動させず、事業所内に留まらせること
  2. そのために必要な3日分の水や食料などの備蓄に努めること

「努力義務」という言葉は、違反しても直ちに罰則が科されるものではないため、軽く受け止められがちです。
しかし、これを軽視することは、法的なリスクとは別の、深刻な経営リスクを招きます。災害発生後、社会の目は企業の対応に厳しく注がれます。
その際に備蓄が不足していた事実が明らかになれば、「従業員の安全を軽視する企業」「社会的責任を果たさない企業」という厳しい烙印を押され、企業のブランドイメージや信頼性は著しく損なわれるでしょう。

この「努力義務」への取り組みは、いわば企業の姿勢を社会に示すリトマス試験紙のようなものです。真摯に「努力」を尽くすことは、従業員からの信頼を高め、ひいては企業の社会的評価を守ることに繋がります。東京都以外にも同様の指針を掲げる自治体は増えており、これは企業が果たすべき公的な役割として、社会全体で認識されつつあるのです。

戦略的フレームワーク:事業継続計画(BCP)によるレジリエンスの獲得

企業の防災対策を、より高い次元で体系的に捉えるための戦略的枠組みが「事業継続計画(BCP:Business Continuity Plan)」です。従来の「防災」が、主に被害の発生を防ぐこと(被害の未然防止)に主眼を置いていたのに対し、BCPは「災害など不測の事態が発生しても、重要な事業を中断させない、または中断しても可能な限り短い期間で復旧させる」ことを目的としています。

BCPの策定は、単に防災グッズを揃えることではありません。
それは、自社のビジネスにおける「心臓部」は何かを特定し、その機能を維持するための戦略を描くプロセスです。

  1. 中核事業の特定:自社にとって最も重要な事業は何か?
  2. 必須経営資源の分析:その事業を継続するために不可欠な資源(人材、設備、情報、資金)は何か?
  3. 目標復旧時間(RTO)の設定:災害でそれらの資源が失われた場合、どのくらいの時間で事業を復旧させるべきか?

このプロセスを通じて、防災対策は場当たり的なものではなく、経営戦略と一体化した、優先順位の明確な取り組みへと昇華します。内閣府や中小企業庁も、企業のBCP策定を強く推奨しており、そのためのガイドラインを公開しています。
BCPを策定し、防災対策を講じることは、もはやコストではなく、企業の長期的な存続と競争優位性を確保するための戦略的投資なのです。

次回は、具体的な対策の第一歩として、オフィス内の物理的な安全を確保するための「地震対策」について詳しく解説します。


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